バベル

 モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本で、コミュニケーションの欠如が起こす悲劇とドラマ。それぞれの事件には実はつながりがあった・・・。
 ブラッド・ピット役所広司が演じるキャラクターはそれぞれの国で異なる事件に関わり、お互いに面識も認識もない。

モロッコを旅行中のアメリカ人夫婦のリチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)が、突然何者かによって銃撃を受け、妻が負傷するという事件が起こる。同じころ、東京に住む聴覚に障害を持った女子高生のチエコ(菊地凛子)は、満たされない日々にいら立ちを感じながら、孤独な日々を過ごしていた……。 (Yahoo!映画

 物語の主軸はモロッコで起きた事件と、それに巻き込まれた夫妻の家族である。さらっと観ていると日本のパートは必要だったのか?という感想を持ちそうだ。かくいう筆者も印象としてはかなりそれに近い物に傾いていた。ではなぜ日本のパートが必要だったのか?

 この物語は、タイトルに掲げられているとおり、旧約聖書の中でその傲慢さから神の怒りを買った「人」の物語である。怒った神はどうしたか。人の言葉を乱して互いの言葉を通じなくさせ、散りじりにさせたのである。
 改めて言うまでもなく、これは互いのコミュニケーションを付かなくさせることのたとえであり、言葉が通じても心が通じない状態は「神の怒り」のなかにあるといえるだろう。

 事の発端は、決して仲がいいとは言えないモロッコの兄弟が互いをけん制するために始めた腕比べである。被害にあうアメリカ人夫婦は互いのことを思いやれない状態で険悪だ。同じく意思疎通が「心の問題」で不全になっている日本の親子も登場してくるのだが、前半は特に「胸糞悪い」と表現したい描写が続き、辛い。 さらにアメリカ人夫婦のもとで働くメキシコ人メイドの話が絡んでくる。

 結局時系列を多少いじっているだけで、事件相互に何か特別な絡みがあるわけではなく、それぞれがコミュニケーションの欠如、些細な行き違いが大事に発展してしまうということだ。そしてその結末は悲劇と、希望を持たせたものが半々。
 エンディングで兄との楽しい思い出を浮かべる弟が痛々しい。そしてある人物が言う台詞。

「私は悪い人間じゃない。愚かなことをしただけ・・・」

印象に残るシーンは他にも。

 モロッコの名も無き村に赴くことになった観光客が自らの偏見から村人に恐怖を抱き、瀕死の重傷者を置き去りに逃げ出す一方突然やってきたけが人を手厚く看病し、案内したガイドは粉骨砕身のケアをしたにもかかわらず夫の差し出す札束を丁寧に押し戻す・・・。
自分の頭の中の考えにしか意識が向かない人と相手の置かれた状況を見つめて相手のことを考えて行動する人々・・・夫の思いが通じたのは言葉の通じない初対面の人々だった。

 メキシコでは子供たちは言葉が通じなくてもすぐに仲良くなり楽しく遊ぶ一方、文化の違いから祝砲におびえ、鶏を絞める姿に驚愕する。

 さて、日本のパートであるが聾唖(ろうあ)の少女がする行動が日本人の感覚にかけ離れすぎていて、不快感を持つ人が少なくないようだ。確かに、まったく無いとは言わなくても、やっていることは所謂「アメリカ的」である。一応の説明としては肉体的ハンデから来るコミュニケーションの難しさに対する焦りが引き起こした行動ということになるだろうか。

 もう一点、エピソードが「コミュニケーション」というつながりでくくることが出来たとしてもそのほかのエピソードのようなつながりがなく、浮いている。ここは確かに気になる。筆者の理解はこうだ。

・世界に散り散りになった人。これを描くには「世界」が必要で、「アジア」を必要とした。
・モロッコ、メキシコが画的にも褪せた色調で所謂先進国の中の出来事を必要とした。
そしてどうしても入れたかったのが、現代においてバベルの塔を彷彿とさせる高層ビル。
日本の親子が高層マンションの高層で凄く豪華な暮らしをしているのは
「驕る人類」、「バベルの塔」、豊かな中にあっても「神の怒り」は免れていないことの象徴なのではないか。

 内容は、後に「考える」ことを強烈に突きつけられるもので、心の健康なときに観ることをオススメする。弱った状態で観るとへこむこと請け合いだ。

 登場する少女がダコタファニングに似ているなぁと思っていたら、妹だった。

                        1. +

バベル
監督: アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演: ブラッド・ピットケイト・ブランシェットガエル・ガルシア・ベルナル役所広司菊地凛子二階堂智
評価: ★★★